「たちあがれ日本」~「太陽の党」~「日本維新の会」へ合流!今後の日本を担うのはどの人物でしょうか?

たちあがれ日本党と人物

日本の政党『たちあがれ日本』や、『たちあがれ日本』に関わった人物ついて色々とまとめてみました。

たちあがれ日本と与謝野馨

与與謝野馨

與謝野馨は、日本の政治家。勲等は旭日大綬章。学校法人文化学院院長・理事。衆議院議員(10期)、衆議院議院運営委員長(第50代)、文部大臣(第117代)、通商産業大臣(第63代)、自由民主党政務調査会長(第46代)、内閣府特命担当大臣(金融、経済財政政策、規制改革担当)、内閣官房長官(第74代)、拉致問題担当大臣、財務大臣(第11代)などを歴任しました。

政策

商工族として地歩を築きましたが、通信傍受法制定や人権擁護法案を巡っては法務省との折衝にあたるなど、「法務族」議員でもある。薬害肝炎訴訟では、法務省との調整に与謝野があたり、議員立法の私案を作成、2007年12月に福田康夫が政治決断する環境を整えました。また与謝野は、官僚の作成した政策を説明できる能力に長けていることから、自民党時代から「政界きっての政策通」として評価されている一方、獨協大学教授の森永卓郎は「財政再建を優先する与謝野の主張は財務省の主張そのもの」と批判しています。事実「経済書は日銀OBの吉野俊彦の岩波新書を一冊読んだだけだ」と告白しています。安倍晋三は当初、安倍内閣発足時に与謝野を内閣官房長官に起用する人事を構想していましたが、安倍周辺が与謝野の官僚寄りの姿勢を警戒し、官僚嫌いで知られる塩崎恭久が起用されるという経緯があったといわれています。後に与謝野は第1次安倍改造内閣で官房長官として入閣しました。日本銀行の国債直接引き受けについて、特別な事由がある場合、国会の議決を経れば可能であり、現時点でも日銀は年に10兆円程度の国債直接引受を実施しているにもかかわらず、「法律が禁じているため、不可能だ」と発言し復興増税を推進しています。その一方で国会対策や議院運営に関わるポストを多く歴任し、豊富な党内外の人脈を生かした政治の動かし方に長けているとの評価もあります。本人も「梶山静六門下の議運・国対族」を自認するなど、調整型政治家としての自負を持っているといいます。

誰が日本のリーダーになるのか?!

政界へ

  • 1968年、日本原子力発電を退職し、中曽根の秘書となりました。
  • 1972年、12月の第33回衆議院議員総選挙に旧東京都第1区から自由民主党公認で立候補しましたが、落選しました。
  • 1976年、12月の第34回衆議院議員総選挙に東京1区から立候補し初当選(当選同期に愛知和男・鳩山邦夫・中村喜四郎・西田司・中島衛・池田行彦・堀内光雄・鹿野道彦・塚原俊平・中西啓介・中川秀直など)。中曽根派に所属する。
  • 1979年、第35回衆議院議員総選挙で当時の大平正芳首相が打ち出した一般消費税による逆風を受け落選しましたが、1980年の第36回衆議院議員総選挙で、日本社会党委員長の飛鳥田一雄を抜きトップ当選し返り咲きました。以後、科学技術・通商産業関係を皮切りに、通商産業政務次官、自民党商工部会長、衆議院商工委員長などを歴任し、商工族、政策通として頭角を現しました。中曽根派に所属しながらも、竹下派の実力者であった梶山静六の門下ともいうべき関係を形成。梶山は自身の国対委員長、幹事長、官房長官在任時に、与謝野をそれぞれ国対筆頭副委員長、議運委員長、官房副長官と常に身近において重用し続けることになりました。
  • 1994年、自民党が政権復帰した村山内閣(自社さ連立政権)で文部大臣として初入閣しました。
  • 1996年、自民党単独内閣となった第2次橋本内閣では、梶山内閣官房長官の下で内閣官房副長官(政務)に就任。通例なら長官とともに総理総裁派閥から起用されるポストですが、梶山の篤い信頼のもとで、他派閥ながら橋本政権を中枢で支えました。
  • 1998年、橋本内閣の次の小渕内閣で通産大臣に就任。通産大臣でありながら、所管外(法務省管轄)の通信傍受法成立に力を注ぎました。
  • 2000年6月の第42回衆議院議員総選挙で民主党の現職・海江田万里に敗れ、重複立候補していた比例代表東京ブロックでの復活も果たせず落選しました。
  • 2003年、第43回衆議院議員総選挙で選挙区では僅差で海江田に敗れたましたが、比例復活で3年ぶりの国政復帰しました。
  • 2004年、自民党政調会長に就任し、小泉首相の進める郵政民営化に尽力、翌年9月に行われた第44回衆議院議員総選挙では、海江田に対して比例区での復活を許さないほどの圧倒的な勝利を収め、5年前の雪辱を果たしました。
  • 2006年、9月26日に安倍政権が発足、安倍とは通信傍受法の成立にあたって協力したほか、財界との勉強会である「四季の会」を通じて親しい関係であるため、内閣官房長官として与謝野を起用する構想があったとされますが、与謝野の官僚寄りの姿勢を警戒して、小泉が待ったをかけたといいます。
  • 2007年、8月27日発足の第1次安倍改造内閣において官房長官に就任しました。
  • 2008年、8月2日、福田内閣改造により内閣府特命担当大臣(経済財政政策、規制改革担当)に就任。福田首相の辞任表明に伴う自民党総裁選挙に出馬しました。財政再建を訴えて2位につけ、麻生太郎内閣では経済財政政策担当相に再任しました。
  • 2009年、2月17日、財務大臣並びに金融担当大臣である中川昭一が辞任したことに伴い、その後任に指名されたため、与謝野一人で経済関連3閣僚を兼任することとなりました。

退任

東京都議選で自民党が敗れたことにより党内の麻生おろしが最高潮に達すると重要閣僚でありながら麻生の自発的辞任を求める立場に立ちましたが、最終的には麻生内閣のもとでの衆議院解散に同意しました。第45回衆議院議員総選挙では再び民主党の海江田万里に2003年以来3度目の敗北を喫するも、比例代表で復活当選。9月4日と9月5日に開かれるG20財務相・中央銀行総裁会議には病気を理由に出席しない意向を示しました。同年9月16日、麻生内閣総辞職により財務大臣を退任しました。

立ち上がれ日本は今も進化しています!

新党「たちあがれ日本」の結党

2010年4月3日自由民主党総裁の谷垣禎一と直接会談し、4月7日付で離党届を提出。会談で与謝野は谷垣に「自民党分裂とはとらないでください、大げさに感じないでください」と述べ、会談後も記者に「自民党の分裂ではなく、一個人・与謝野馨が去ったということだと考えてほしいと伝えた」と述べ、自身らの離党は自民党分裂ではないとしています。4月10日の午前には「反民主・非自民を貫く」と述べ、結成を予定する新党は反民主の党であるとの認識を示し、4月10日午後、平沼赳夫、園田博之らとともに、新党『たちあがれ日本』の結党を正式に発表しました。しかし、そんな与謝野の思いとは裏腹に、4月27日、自民党党紀委員会は政党票で当選した比例選出議員であることや、新党結党首謀者として他の自民党国会議員(園田博之・藤井孝男・中川義雄)に対して新党結党のために自民党離党を促したことを反党行為として、賛成9票・反対3票で与謝野に対して除名処分が下りました。